翻訳と辞書
Words near each other
・ 森嶋プチ
・ 森嶋久雄
・ 森嶋仁美
・ 森嶋勇斗
・ 森嶋太郎
・ 森嶋猛
・ 森嶋秀太
・ 森嶋通夫
・ 森嶌昭夫
・ 森巌寺
森巌寺 (世田谷区)
・ 森川
・ 森川あみ
・ 森川いづみ
・ 森川さんのはっぴーぼーらっきー
・ 森川たくや
・ 森川つくし
・ 森川ひさし
・ 森川まりこ
・ 森川まり子


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

森巌寺 (世田谷区) : ミニ英和和英辞書
森巌寺 (世田谷区)[しんがんじ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [もり]
 【名詞】 1. forest 
: [てら]
 【名詞】 1. temple 
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [く]
 【名詞】 1. ward 2. district 3. section 

森巌寺 (世田谷区) : ウィキペディア日本語版
森巌寺 (世田谷区)[しんがんじ]

森巌寺(しんがんじ)は、東京都世田谷区代沢にある寺院。浄土宗に属し、1608年(慶長13年)に結城秀康の位牌所として建立された〔〔。江戸時代には針供養、そして富士講で名高い寺として知られ、多くの参詣者で賑わったと伝わる〔〔〔森巌寺 Portal Tokyo、2013年9月29日閲覧。〕。毎年2月8日に行われる「森巌寺の針供養」は、世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)に指定されている〔。2006年(平成18年)には、境内にあった富士塚の発掘調査が実施された〔『森巌寺富士塚』、2頁。〕。この寺院の界隈は、「淡島の灸の森巌寺」として1984年(昭和59年)に「せたがや百景」に選定されている〔『せたがや百景』、23頁。〕〔『せたがや百景』、89頁。〕〔世田谷区 よくある質問と回答集 世田谷区役所ウェブサイト013年10月5日閲覧。〕。
== 歴史 ==
この寺院は、結城秀康の位牌所として1608年(慶長13年)に建立された〔文献によっては、森巌寺建立の時期を慶長12年(1607年)と伝えている。〕〔〔。1607年(慶長12年)、死期の迫った秀康はかねてより帰依していた越前国一乗寺の万世和尚に黄金を贈り、江戸に寺を建立するように遺言した。万世和尚は年老いていてその任を果たせそうになかったため、弟子の孫公和尚(明暦元年7月11日寂)に秀康の遺言を託した〔〔。孫公和尚は各地を巡って北沢村に適地を見つけ寺院を建立し、秀康の法名「浄光院殿森巌道慰運正大居士」にちなんで「浄光院森巌寺」と名づけた〔〔。
森巌寺は浄土宗に属し、京都知恩院末寺である〔〔。明治時代神仏分離の時期まで、寺の東隣にある北沢八幡宮別当寺を務めたことから山号を「八幡山」といい、正式の名称は「八幡山 浄光院 森巌寺」という〔〔〔〔。本尊は阿弥陀如来で、脇侍観音菩薩勢至菩薩とともに祀られている〔。
森巌寺の本堂は、江戸時代に2回の火災に遭って焼失したことが『新編武蔵風土記稿』巻之五十二、荏原郡之十四、下北沢村の条や、村尾正靖が文化4年(1807年)から天保12年(1841年)の紀行文をまとめた『江戸近郊道しるべ』などに記述されている〔村尾正靖は号を嘉陵といい、清水徳川家御広用人を務めた人物であった。『江戸近郊道しるべ』は、『嘉陵紀行』、『四方の道草』などとも呼ばれる。呼び方が複数ある理由は、村尾による原題が特になかったためである。〕〔〔『世田谷地誌集』、93-94頁。〕〔寺歴と由来 森巌寺ウェブサイト、2013年10月1日閲覧。〕〔『世田谷地誌集』、254頁。〕。秀康の位牌は、本尊阿弥陀如来の元にある厨子内に安置されている〔。徳川家の位牌所であるため、建造物などに徳川家ゆかりの三つ葉葵の紋所を見ることができる〔〔〔『せたがやの散歩道』、20-21頁。〕。昭和の初期まで、秀康と関係の深い松平家の子孫が年1度森巖寺を訪問した際に、三つ葉葵の紋が入った漆器でもてなすことが恒例になっていたという〔。
江戸時代の森巌寺は、灸と針供養、そして富士講で名高い寺として知られ、多くの参詣者で賑わったという〔〔〔〔。灸は「淡島明神の灸」として知られ、『江戸名所図会』は次のような由来を伝えている〔〔。森巌寺の開山孫公和尚は紀州名草郡加太の人で、常日頃腰痛に苦しんでいた〔〔。和尚は淡島明神に熱心に祈願を続けたところ、ある夜の夢に淡島明神が現れて灸の秘法を伝授した。和尚は淡島明神の夢告に従って灸を試し、積年の腰痛はたちどころに完治した〔〔。和尚はこの霊験に深く感謝し、加太から淡島明神をこの地に勧請して淡島堂を建立した〔〔。和尚はさらに森巌寺の僧侶たちにも灸の秘法を伝授し、その効能の確かさは世間の評判を呼んで毎月3・8の灸治の日には遠くから訪れる人も多かった〔〔。その名残で森巌寺の山門には、「粟嶋の灸」という看板が今でも掲げられている〔〔。
針供養は、毎年2月8日に淡島堂で執り行われる〔。その始まりは定かではないというが、江戸時代末期には狂歌の題材になっていることから、当時は既に近郊で名高い行事だったことが推定されている〔。針供養の当日は淡島堂内で法要が行われ、人々は用意された豆腐に古針を刺して供養する〔。この行事は、1999年(平成11年)11月24日に世田谷区指定無形民俗文化財(風俗慣習)に指定された〔。なお淡島堂の前には、針塚が現存している〔〔境内ご案内 寺歴と由来 森巌寺ウェブサイト、2013年10月1日閲覧。〕。
森巌寺境内には、かつて富士塚が存在していた〔〔。この富士塚は江戸時代に盛んだった富士講のために1821年(文政4年)に造成されたもので、標高はおよそ40メートルあった〔〔『森巌寺富士塚』、18頁。〕。この富士塚は、森巌寺の墓地整備計画によって2006年(平成16年)に切り崩された〔。切り崩される直前の富士塚については、山本暉久(昭和女子大学大学院教授)を会長とする森巌寺富士塚調査会と世田谷区教育委員会が詳細な調査を行っている(後述)〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「森巌寺 (世田谷区)」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.